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title: "従わない人が、みな理解していないとは限らない"
author: "Shawn Jiang"
lang: ja
date: 2026-09-13
canonical: https://tplog.dev/ja/essay/thinking-about-euphemisms/
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# 従わない人が、みな理解していないとは限らない

中国語の「请勿吸烟」という表示は、多くの公共の場所で目にする。「请」は丁寧に頼むときの「どうか」、「勿」は「〜するな」という意味で、全体として「喫煙しないでください」と明確に求める言葉だ。それでも、すぐそばに表示があるのに、構わずたばこを吸う人がいる。そこに書かれた文字は空気のように、存在してはいるが、何の効き目もない。

だから私は、十分にはっきり伝えさえすれば問題は解決する、とはなかなか思えない。

最近、日本語の婉曲表現を論じた[「婉曲表現を考える。」](https://note.com/mikakkie0221/n/n62592df361fc)という記事を読んだ。そこで取り上げられていた「お控えください」は、文字どおりには「程度を抑えてください」、「ご遠慮ください」は「事情を考慮して、言動を慎んでください」という意味を持つ。

そのため、前者を「少しならしてもよい」、後者を「遠慮しながらすればよい」と受け取る人がいる、と記事には書かれている。しかし、そこで論じられている公共の掲示では、伝える側が実際に求めているのは、その行為をしないことだ。

原著者はここから、人々が言葉の表面に現れない意味を読み取れなくなっているのではないか、と懸念している。私はそれを読みながら、中国語の「请勿吸烟」を思い出した。

こちらには、もはや推測するような余地はほとんどない。それでも無視される。

## 従わなかったことだけでは、理解していなかった証拠にならない

仮に、禁煙区域で誰かがたばこに火をつけたとする。その場で確かに分かるのは、その人が禁煙という決まりに従わなかったことだ。なぜそうしたのかまでは、その行為だけを見て結論づけられない。

掲示に気づかなかったのかもしれない。そこに書かれた文字を読めなかったのかもしれない。あるいは、自分が立っている場所は禁煙区域に含まれないと勘違いしていたのかもしれない。こうした場合には、注意書きをもっと目につきやすくし、決まりとその適用範囲をさらに明確にする必要がある。

だが、別の可能性もある。ここでは吸ってはいけないと知りながら、一本くらいなら構わないと思っているのかもしれない。

前者では、情報が届いていないか、正確に理解されていない。後者では、情報はすでに届いているが、相手がそれを重く受け止めていない。

外から見れば、どちらも「言っても無駄」に見える。けれど、必要な対応は異なる。掲示を見ていない人には、知らせる必要がある。すでに知っていて、それでも続ける人に、「请勿」の意味をもう一度説明しても、おそらく大した助けにはならない。

だから私は、「今の人は、こんなことさえ読み取れなくなった」という判断には、少し慎重でありたい。実際に理解していない人もいるだろう。だが、よく理解したうえで、従いたくない人もいるかもしれない。協力しない人をすべて、理解力の問題として数えることはできない。

## 婉曲表現が、言い訳になることもある

日本語のあの二つの表現が、「禁止」よりも理解するための段階を一つ多く必要とするのは確かだ。その用法になじみのない人は、丁寧な言い方だからといって、少しならしてもよいわけではないことを、本当に知らない可能性がある。

そのような場合、要求をはっきり伝えることは欠かせない。とりわけ、不特定の人に向けた公共の掲示では、全員が同じ言語習慣を共有していると決めつけるべきではない。

しかし、「少しだけなら」という言葉は、誤解ではなく、自分だけは例外であってほしいと求めるためのものかもしれない。

吸ってはいけないと知りながら、「一本だけだから」と考える。撮影禁止だと知りながら、「一枚だけだから」と考える。その「少し」は、言葉の意味をどう理解したかではなく、自分の行為に対する甘さから生まれている可能性のほうが高い。表現を明確な「禁止」に変えても、同じ理由づけはそのまま使える。

もちろん、「してもよいと思っていた」という一言を聞いただけで、相手がとぼけていると決めつけることはできない。動機を推測するより、まず決まりと範囲を明確に伝え、その後の反応を見るほうが役に立つ。誤解が解けて協力してくれるなら、そこで話は終わる。それでも続けようとするなら、議論の焦点も変えるべきだ。

そのとき必要なのは、係員の介入や明確な制止、そしてあらかじめ規則で定められた対処かもしれない。より完璧な注意書きを探し続けることではない。

## 明確に伝えることと、そのとおりにさせることは違う

「请勿吸烟」には、丁寧な依頼を表す「请」が入っている。しかし、喫煙者に同意するかどうかを尋ねているわけではない。

丁寧さは伝え方であり、喫煙してよいかどうかは決まりの内容である。この二つは同時に成り立つ。要求が本気であることを示すために、語調を険しくする必要はない。一方で、相手の言い方が穏やかだからといって、本来明確な要求を交渉できるものとして扱うこともできない。

とはいえ、一枚の掲示だけですべてを成し遂げられないのも確かだ。人々が決まりに従うかどうかは、注意する人がいるか、違反した後にどう対処されるか、周囲の人がどう行動しているかにも左右される。こうした問題をすべて言葉遣いに背負わせれば、やがて掲示の文字は大きくなり、語調は強くなるばかりで、実情は何も変わらないということになりやすい。

言葉が重要ではない、という話ではない。目に入り、理解できるようにすることは、きちんと果たすべき仕事だ。ただ、それを果たした後には、理解と行動の間に隔たりがあることも認めなければならない。

人は、要求を正確に言い直せるほど理解していても、従わないと決めることができる。

## 理解していないことと、気にかけないことは分けて考える

元の記事で、私もなお賛同する点がある。他者を理解するには、いつまでも字面だけにとどまってはいけない。言葉の慣習が毎回一から説明されるわけではないし、あらゆる配慮を一つの文に書き尽くすこともできない。

だが、だからといって、「理解していない」ことを安易に道徳的な評価へ変えたくはない。ある表現になじみがないことや、ほのめかされた意図を読み取るのが苦手なことは、他人を気にかけていないことと同じではない。進んで確認し、説明を聞いた後に行動を改めることもまた、相手を真剣に受け止める態度だ。

反対に、理解しているからといって、自動的に思いやりがあることにはならない。なぜ相手が喫煙してほしくないのかを十分に分かっていても、自分が吸う一本のほうが大事だと思う人はいる。

私がより重視したいのは、その次の段階だ。自分の行為が他人に影響すると知った後で、行動を変えようとするかどうかである。

もう一言説明する必要がある人には、もう一言説明すればよい。すでに理解している人を前に、自分の伝え方がまだ不十分なのではないかと、いつまでも反省し続ける必要はない。

「请勿吸烟」は、伝えるべきことをすでに伝えている。その先まで、掲示を書く側だけに努力を求めることはできない。

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参考記事：[婉曲表現を考える。](https://note.com/mikakkie0221/n/n62592df361fc)

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