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title: "「失礼」の一言から、少しずつわかってきたこと"
author: "Shawn Jiang"
lang: ja
date: 2026-09-24
canonical: https://tplog.dev/ja/essay/what-shitsurei-taught-me/
translations:
  en: https://tplog.dev/en/essay/what-shitsurei-taught-me/
  zh: https://tplog.dev/zh/essay/what-shitsurei-taught-me/
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# 「失礼」の一言から、少しずつわかってきたこと

とても静かなカフェで、店員が作業中にうっかりカップを割り、「失礼しました」と言った。

「失礼しました」を中国語に字面どおり移せば「刚才失礼了（今、失礼しました）」となり、この場面なら「抱歉，打扰了（すみません、お騒がせしました）」と訳せる。

以前の私には、なぜここで謝るのかがよくわからなかった。カップは店のもので、割ったのも店員自身だ。謝っていることは聞き取れても、なぜその謝罪を客に向けるのかは、すぐには理解できなかった。

その後、日本文化への理解が深まるにつれて、少しずつわかってきた。カップが割れ、その音が店内の静けさも破った。あの謝罪は、その音に静けさを乱された客に応えるものでもあったのだと、今の私には聞こえる。

カップは店のものでも、静けさはその場にいる皆が味わっていた。

あの一言をきっかけに、自分が周りの人と同じ環境にいることを意識するようになった。誰かにぶつかったわけでも、話を遮ったわけでもなくても、一つの行動が人に影響することはある。

今でも、同じような場面で反射的に同じ言葉が出てくるわけではない。それでも、その場の共有された環境を保つことは気にかけるようになった。

「失礼」の中国語での意味を知っているだけでは、あとになって私が理解したことまでは説明できなかった。

「失礼」は、日本語ではさまざまな場面で使われる。人のオフィスに入るときには「失礼します」、先に帰るときにも「失礼します」、人に迷惑をかけたあとなら「失礼しました」と言うことがある。

中国語ではそれぞれ「打扰了（お邪魔します）」「告辞了（お先に失礼します）」「抱歉（すみません）」と訳される。どれも自然で、その場で何が起きているかも伝わる。ただ、訳文だけを読んでいたら、これらの場面で日本語では同じ言葉が使われていることに、私は気づかなかったかもしれない。

日本語を学んだからこそ、私はそのつながりを見失わずにすんだ。

同じ言葉が、異なる場面で何度も現れる。なぜ部屋に入るときにそう言うのか。出ていくときにもなぜそう言うのか。カップを割ったときにまで、なぜその言葉が使われるのか。私は時間をかけて理解する必要があった。それぞれの用法はまったく同じではない。それでも、自分が人に与える迷惑を、話し手がどう気にかけているのかに、次第に目が向くようになった。

カフェで耳にしたあの一言も、ほかの場面についての理解とつながっていった。

あのときも、店員が謝っていること自体はわかっていた。それでも疑問は残った。言葉は変わっていないのに、その言葉への理解は、文化に触れる経験を重ねるなかで少しずつ具体的になっていった。

日本語を学ばなくても、暮らしや観察を通して、こうしたことは理解できる。AIにも「失礼」のさまざまな使い方を説明し、店員がなぜあの場面で謝ったのか、その可能性を教えることはできる。

それでも、日本語を学んだことで、私はより深く理解できた。異なる場面に繰り返し現れる同じ言葉に気づき、以前抱いた疑問を携えたまま、次にその言葉が使われるときも聞くことができるからだ。

一文が何を言っているのか知りたいだけなら、翻訳はすでに大いに役立つ。それでも私が日本語を学び続けたいのは、なぜその人が、そのとき、その言葉を口にしたのかを理解したいからだ。

店員の謝罪を聞き取ってから、なぜ謝ったのかを理解するまでには、まだ少し道のりがあった。その道をたどるうちに、私もあのカフェの静けさを気にかけるようになった。
