ゆったり構えるとは、自分に少し余地を残すこと
中国語版の『纳瓦尔宝典』を読んでいて、こんな一文に出会った。日本語に訳すと、「ゆったりした頭脳からこそ、偉大なアイデアが生まれる」。
中国語の「悠闲」という言葉を見て、私は日本語の「余裕」を思い浮かべた。まだ少し余地が残っている、という意味だ。
「悠闲」と聞くと、ある種の暮らしの風景が浮かびやすい。急いで片づける仕事も、返さなければならないメッセージもなく、窓辺に座って、ゆっくりコーヒーを飲んでいる。けれど、この一文が言おうとしているのは、予定表の空白だけではないのかもしれない。
窓辺に座っていても、頭の中では会議が続いていることがあるからだ。
「余裕」とは、時間が足りているだけでなく、なお少し時間が残っていること。目の前のことに対処できるだけでなく、なお少し力が残っていること。心の状態について言えば、「心の余裕」、つまり心の中にも余地があるということだ。
中国語の「松弛感」は、この感覚を表せる言葉かもしれない。「余裕」が余地のあることに重きを置くのに対し、「松弛感」は、張り詰めていない状態や、そこから伝わる感じに重きを置く。ただ、この一文について言えば、私の理解により近いのは「悠闲」よりも「松弛」のほうだ。やることは多くても、それに絶えず追い立てられなくていい。
時間が空いていることと、張り詰めずにいられることは、確かに別の話だ。
午後に何の予定もないのに、つい何度もスマートフォンを見てしまう。置いたそばから、まだ終わっていないことを一つ思い出す。ひとまず放っておこうと決めても、今度は気持ちが落ち着かない。時間はたしかに自分のものなのに、注意だけは、いつ呼び出されてもいいように待ち構えている。
そんな空き時間を、休息と呼ぶのは難しい。
反対に、忙しいからといって余裕がないとは限らない。今日は何から手をつけ、何を明日に回せるのかが分かっている。問題にぶつかったとき、すぐ答えを出さずに「少し考えさせてください」と言える。やるべきことは消えていない。それでも、すべてを同時に頭へ押し込む必要はない。
張り詰めていないことは、必ずしも話し方がゆっくりで、表情が落ち着いていることとして現れるわけではない。何事もどうでもいいと思うこととも違う。真剣であっても、結果を大切にしていても、迷ったり、判断したり、ときには考えを変えたりするための空間を少し残しておくことはできる。
頭がいつも、次のメッセージ、次の依頼、次の締め切りへの対応に追われていれば、「考える」という行為は、たやすく一つの問いだけになってしまう。どうすれば、これを早く終えられるか。
なぜこれをするのか、ほかにやり方はないのか、そもそもしなくてもいいのではないか。そんなことは、また今度考えるしかなくなる。
そして、その「今度」はなかなかやってこない。
問題は、考える力がないことではなく、考えるための場所を残していないことなのかもしれない。隙間という隙間が埋め尽くされ、自分が何をしているのか立ち止まって見ることさえ、少しぜいたくに思えてくる。
だから私は、「余裕」という言葉が好きだ。それを聞いて思い浮かべるのは、遠くにある理想の暮らしではない。もっと具体的な、わずかな余地だ。メッセージが届いても、すぐに返さなくていい。問題に出会っても、急いで態度を決めなくていい。やるべきことが全部終わっていなくても、先に食事へ行っていい。
こうした余地は小さく見える。けれど、次にどうするかを考える機会を与えてくれる。
冒頭の一文をもう一度読むと、そこでいう「悠闲な頭脳」とは、何の課題も抱えていない頭脳とは限らない。気がかりもあれば、難題もあり、心からやり遂げたいこともある。ただ、それらですっかり埋め尽くされてはいないのだ。
物事のために時間を取り、自分のためにも少し余地を残す。
それがたぶん、私の求める「松弛感」なのだ。