機械が9割やったのに、なぜ人は離れられないのか
仕事の9割を自動化した、と謳う製品がある。
機械がコンテンツを生成し、人が確認して公開する。機械がフローを最後まで動かし、人が戻ってきて、これで完了と言えるかを判断する。たしかに機械は仕事の大半をこなし、人の作業も大きく減っている。
それでも、人はその場を離れられない。
機械が止まるたびに、人はフローへ戻り、文脈を思い出し、結果を確認し、最後の一歩を引き取る。自動化によって作業時間は減っても、人の注意が同じ割合で解放されたわけではない。
「9割」という数字は、この違いを覆い隠しやすい。
割合から分かるのは、機械がいくつの工程を終え、どれだけ時間を節約したかだ。人がフローから離れられるようになったかどうかは分からない。実行するたびに人の引き継ぎが必要なら、人はその仕事を気にかけ、終わるのを待ち、結果をシステムに任せきれないままだ。
ただし、フローに人が残っていること自体が問題なのではない。
医師が治療方針を確認する。責任者が取り消せない支払いを承認する。編集者が記事を公開してよいか判断する。ここで求められるのは反復作業ではなく、判断と責任だ。この工程は人が担うべきだから、人が残っている。
たまに起きる例外も同じだ。システムが自分の境界を超える入力に出会い、そこで止まって人に助けを求める。それは自動化の失敗ではない。自分にできることをシステムが分かっているということだ。
本当に問うべきなのは、戻ってきた人が、そこで何を加えているのかだ。
人が新しい判断を加え、人にしか負えない責任を引き受けるなら、その工程は自動化が残した尻尾ではない。
毎回同じ操作を繰り返し、同じ種類のミスを直し、すでに明文化できる条件をシステムに代わって確認しているだけなら、いわゆる「人による最終確認」は、解消されないまま残った固定的な穴なのかもしれない。
この二つの人の関わり方は似ているようで、価値はまったく違う。
前者は、機械がすべきでない判断を人に残している。後者は、機械が終えていない作業を人に残している。
だから、自動化が価値を生んだかどうかは、機械がどれだけこなしたかだけでは判断できない。人に何を残したのかも見なければならない。
残されたものが、まれな例外、重要な判断、現実の責任なら、人が関わる意味はある。
残されたものが、実行するたびに繰り返す決まった引き継ぎなら、機械がどれほど多くをこなしても、人はまだフローから抜け出せていない。
自動化の目的が人の注意を解放することなら、本当に測るべきなのは機械が終えた工程の数ではない。通常の経路で、なお人が何度も引き継がなければならないかどうかだ。
機械が9割やったからといって、すぐに喜んではいけない。まず、その人がなぜまだ離れられないのかを見たほうがいい。