見落とした「て」
今日、仕事のチャットで一文を読み違えた。
「こちらでやりとりしてます。」
最初は、「このあと、こちらでやりとりします」という意味だと思った。それで、関連する内容を相手にもう一度転送した。
ところが相手からは、もう対応済みだと言われた。
改めて読み返して、ようやく「やりとりしてます」を「やりとりします」と読んでいたことに気づいた。
「て」を一つ見落としていた。
「やりとりします」は、「このあと連絡を取る」という意味になりうる。一方、「やりとりしてます」の「してます」は、「しています」の会話でよく使われる縮約形だ。この文では、「こちらではすでにやりとりが始まっている」という意味に近い。
それ自体は「もう終わった」という意味ではない。それでも、やりとりはすでに進んでいて、まだ始まるのを待っているわけではないとわかる。
私は進捗の共有を、これから動くという約束として読んでしまった。
難しい文法ではない。二つの文を並べれば、違いはすぐにわかる。理解していなかったのではなく、流し読みしたとき、そもそも別の二文として見えていなかった。
仕事のチャットでは、一字ずつ読むことはほとんどない。視線を走らせ、目立つ言葉をいくつか拾い、大意が通ればそのまま先へ進む。
「こちら」と「やりとり」は目に入っていた。ところが語尾まで来ると、「します」と「してます」はよく似た一つの形になっていた。
そこに一つ加わった「て」が、文全体の意味を変えていた。
中国語の「会」「之后」「已经」や、英語の “will” は、時間を示す目立つ手がかりだ。流し読みしていても目に入りやすい。
日本語では、同じような手がかりがいつもあるとは限らない。「やりとりします」は、「会」や “will” に当たる言葉を別に加えなくても、これからすることを表せる。二つの文の違いは、目立つ時間表現ではなく、語尾の「て」に詰まっていた。
私は「やりとり」を拾い、見慣れた語尾が目に入ると、頭の中で自然に「このあと」を補った。
けれど、画面に書かれていたのは、私が思い込んだ文ではなかった。
使われている単語はすべて知っていたし、文法も習っていた。読んでいるときは、何の難しさも感じなかった。それなのに、文はなめらかに頭を通り抜け、間違った意味に変わっていた。
知らない単語なら立ち止まる。知っているつもりの文では、立ち止まらない。
この読み違いで面白いと思ったのは、一文の中で最も目立つ部分が、必ずしも意味を最も大きく変える部分ではないことだ。
流し読みするとき、私はまず見慣れた形を認識し、残りを文脈で補っていた。ところが、見落とした「て」は、補い方を間違えると文全体の意味が変わる部分だった。
「やりとり」は、この文が何について話しているかを教えてくれた。「て」は、そのやりとりがどこまで進んでいるかを教えてくれた。
私は前者を拾い、後者を見落とした。